2011/12/06

「他人のせい」を変えるひとつの問いかけ

ミスがおきたり何かうまくいかなかったという時には、確かに「その事態を招いた人」がいるわけです。
そう考えると「○○さんが悪い」「△△の責任」と考えることは、ごく自然なことに思われます。ともすると「他人のせいにしてはいけない」理由が「一般的な道徳観」以外には見当たらないようにも思われるのです。

argument


仮に、「他人のせいにしてはいけない」から他人を責めないのだとしても、してはいけないことだからしないだけで、それで責める気持ちがなくなるわけではないでしょう。

わたしたちは、誰かを責める気持ちが問題を解決するわけではないと知っています。
にもかかわらず、「だれかを責める気持ち=怒り」はたしかに存在し、無視することはできないのです。ですから問題解決とは別に、怒りを鎮めるための労力をあらためて費やすことになるわけです。

今のところ心理学で、このことはほぼ確実に言えます。選択の結果よりも、選択できる事実の方が、人の心にとっていい意味を持ちます。強制された「いい結果」より、自分で選んだ「まあまあの結果」の方が人を喜ばせ得るという意味です。
-082 自分で決定できるから社長は長生きする:ライフハック心理学-

他人が自分にとってまずい事態を起こしたことが、その怒りの根源であるわけです。
自分のミスを腹ただしく感じることはあっても、自分の気が晴れるまで自分に謝罪を求めるといったことはしないものです。
自分がコントロールできるところで起きた事態よりも、他人がもたらした事態はもっと心を乱すことなわけです。

そう考えると、「他に自分がコントロールできることはないか」という問いを普段から持っておくことで、こうしたストレスを緩和することができます。

自分がコントロールできることを考えていくと、たとえそれが他人のタスクであっても、自分がコントロールできることに必ず突きあたるのです。

そうしてミスが起きたとしても、それはこれまでのような「他人が起こしたまずい事態」ではないのです。
少なくとも、そこには「自分がコントロールできること」が含まれていたわけですから、「誰のせいか」よりも、なぜそのミスが起きたのか、どうしたら恒久的にそのミスをふせげるのかということに意識が向くわけです。

これは、「他人のせいにしてはいけない」という道徳に従おうとする行動ではないのです。
興味の対象が「自分がコントロールできること」にシフトした結果、自然に「誰のせいか」を考える必要がなくなるということなのです。